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普通、戦争の名前は勝者によってつけられる。だが、「阿片戦争」"Opium War"という名はアメリカ人によってつけられた。この名前に従えば、イギリスにとり「不義の戦い」(陳舜臣『実録 アヘン戦争』)となるようにみえる。


もちろん現行の日本の教科書においても、イギリス側が阿片売却収入を原因として戦争が開始されたとし、大本営情報部が昭和18年に制作した宣伝映画『阿片戦争』も同様に説明している。当然のことながら、中国人は「正義」の側にたち、「帝国主義」の被害者であると主張する。



阿片戦争の構造


こういった見方は正しくない。

イギリスは自由貿易を主張し、自国在外施設への中国官憲による暴力行為に反発し、戦争が開始されたのである。


これにたいし多くのアメリカ人は、阿片貿易の片棒を担いだことを隠しながら(フランクリン・デノボ・ルーズベルトの母方の祖父、ワレン・デノボは、阿片貿易で巨富を得た人物である)イギリスを非難し続けている。そして、戦時中の日本の大本営にしても、対米英戦争を阿片戦争を引き合いに合理化したかったのである。


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当時、阿片は禁制品か?


19世紀国際法において、禁制品"contraband"とは戦時禁制品を指した。そして、明治軍人は戦時禁制品を「密輸品」と呼んでいた。現在の用語とは大分異なるのである。19世紀前半には飛行機もなく、鉄道は未発達で、大半の輸出入は商船に依存していた。平時における船舶は船籍のある国家の領土と同じ扱いになり、船長は当該国法律にもとづいて司法権を実行する。そして、イギリスの19世紀中葉とは自由貿易主義が熱心に唱えられた時期でもあった。


「神のみえざる手」(アダム・スミス)が全体を支配するから、各人は自助によって最大の利益を追求することによって、各人が最大の幸福を得られるといった考え方であった。



1830年代、世界貿易における最大の交易品は阿片であった。



世界貿易をリードしたイギリス(植民地を含む)国内において、あらゆる種類の麻薬の販売・所持・吸引などは、いっさい自由であった。シャーロック・ホームズはコカイン常習者なのである。またルイス・キャロルの『アリスの不思議な世界』は麻薬酩酊状態を表現したものともいわれる。阿片は痛み止め・咳止め薬として、薬局やパブで公然と市販されていた。もちろん中毒者は多数いたが、誰も気にとめることがなかった。日常生活に障害をきたすような重度の中毒者は少なく、阿片窟のようなものは存在しなかった。


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アメリカでは、阿片を輸入禁止にすべきであるという世論が一際強かった。多分にピューリタン信仰からで、禁酒法と同一性格のものであろう。1909年、アメリカはメキシコと中国を誘い、上海で三国による医療用を除く阿片海上輸送の禁止を話し合い、阿片輸入禁止法を施行した。そして1914年になり、ハリソン法を施行、阿片などの麻薬の国内における製造・販売・摂取を全面的に禁止した。


イギリスでも、1906年総選挙で大勝した自由党は、1907年、中国と2国間協定を締結し、薬用を除く阿片を輸出入禁止種目とすることに合意した。だがこれは阿片を禁制品としようとしたものではなく、2国間合意によって輸出入禁止種目を設けることを可能とする意図にもとづくものであった。

イギリスで麻薬全般が国法による規制の対象となったのは、第一次大戦中からである。


日本においては、阿片は医師処方による薬剤指定とされ、販売から規制する方法がとられた。

これによって麻薬取締りは厚生省所管とされた。1948年、麻薬取締法が施行され、医療用を除く麻薬類の製造・輸入・販売・所持は全面禁止となり、現行に至ってる。


ところが、中国における阿片禁止は意外と古くから行なわれていた。1796年には、関税表から阿片を取り除いた。これは事実上の輸入禁止措置であった。さらに、1799年には国内における芥子栽培を禁止している。ところが、これらは建前だけにすぎなかった。中国では天子から禁令が出されても、地方官が実際に違反者を処罰せねば、実効があがることはない。法令にたいする考え方が根本的に異なるのである。







































数量



価格



1817

3698箱 墨$4084000



1825

9066箱 墨$7927500



1833

21659箱 墨$14222300



1838

28307箱 墨$19814800



1898

32913箱 £4388385


  • 1両(テール:庫平銀)=銀37.3125グラム


  • 1墨$(メキシコ・ターレル、太平銀)=銀27.4246グラム


  • 1箱=133.33ポンド=60キログラム


  • 金1オンス(30.225グラム)=3ポンド17シリング10ペンス=35米ドル


  • 金銀比価は19世紀平均で1:15、現在は1:58である。


  • 2007年6月の銀相場は1グラム=53円である。


  • これからすると、庫平銀1両は1977円、約2000円である。


当時の清国の国庫歳入は4000万両(墨$5400万)程度であった。一方、イギリスの歳入は、1850年前後で6800万ポンド(金本位制であり比較が難しいが、1ポンド=4墨ドルとすると墨$2億7200万に相当する)であって7倍の格差があった。


ただし中国では、地租などの直接税は地方税であり、国庫歳入は塩税と海関税(輸出入税)などに限られる。


つまり、阿片2万箱とは、イギリスの国庫歳入の概ね5%程度であり、清国は40%程度を占めたということになる(現在の銀換算であれば206億円)。清国の租税負担率が低いことを考慮しても、イギリスの国民総生産が5倍以上あったことは確実である。


これはイギリスが産業革命を成功させつつあることの反映であって、すでに都市人口は5割に達していた。大ロンドンの人口は730万人であり、清国北京の45万人を圧倒していた。


清国の阿片輸入はイギリスに限られた。これはベンガル産阿片が上質であったたと密輸は統計に出ないためである。ただ19世紀後半では、清国の阿片輸出も盛んであり、アメリカを中心に輸入と同量程度輸出していた(中国産は低品質で価格は半分程度)。


このイギリスの対清貿易は18世紀後半では東インド会社に特許状を出すことにより限定されていた。ところが、東インド会社は茶と絹の輸入により、入超に陥り、清国への輸出商品として阿片を考えた。イギリスは茶を中国から輸入し、インドへ綿布を輸出、インドは中国へ阿片を輸出するという三角貿易を想定したのである。


ただし、これはあくまでも東インド会社の経営方針であって、イギリス本国は全世界にまたがる大英帝国の一部で発生した些事にすぎないと考えていた節がある。


しかるに、東インド会社はインド統治を行いながら、様々な営利事業を独占していた。この中には、直轄植民地であるベンガルの芥子栽培から阿片精製が含まれていた。


当然、東インド会社はベンガル産阿片の販売権を握り、中国向け、イギリス本国向け、レパント貿易向け全ての輸出を握っていた。ところが同じインド産でも、藩王国で産するマルワ産・マドラス産の阿片も中国向けに輸出されており、これら産品は東インド会社特許状に反するので「密輸品」と呼ばれていた。じっさいに輸出していたのはジャーディン・マセソンなどの冒険商人であった。


東インド会社も中国商人との応接や海運などは、1820年ころから徐々に、これらの冒険商人に任せるようになった。


じつは東インド会社はこの頃から「大企業病」にかかり高コスト体質になっていたのである。一方、議会はこの変則的な貿易は自由貿易の原則に反するので、1834年、東インド会社の対清貿易の独占という特許を取り消した。


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